無人島になってしまった黒島

 長崎県は日本一島の多い県である。

海上保安庁によると海岸線の長さが100m以上を島と定義しているらしい。

2023年の国土地理院の発表によると、日本には14,125の島があるそうだ。

長崎県は、1,479島あり日本一の島の数になる。

その中で、人のすむ島は60数島である。

島といっても長崎港に浮かぶ伊王島のように県本土と橋でつながっている島もあれば、フェリーや渡海船に頼らざるを得ない島もある。

さらに、フェリーで渡った本島から、さらに船に乗って渡らなければならない離島の離島もある。

 

 私は調査の関係で多くの有人、無人の島々に上陸してきた。

有人島は、自衛隊や個人所有の島である3島以外はすべて制覇した。

10数年前のことである。

それぞれの島々で、調査だけでなく島に住む人たちとも話をしたので、いろいろな思い出がある。

何十回と訪問した島もあれば1回だけという島もある。

その中で一番思い出深いのが、一度だけ来島した五島列島の黒島。

黒島は、五島市福江島の南端にある冨江港の沖に浮かぶ小さな島である。

 

黒島の港(2014年3月19日、島から離れるときに撮影)  

 


 2022年12月29日の長崎新聞に次のような記事が掲載された。

「五島の黒島 無人に 唯一の島民亡くなる」という記事である。

人のすむ有人島が無人島になってしまった記事であった。

この島を訪れたのは、2014年3月19日のこと。

たった7時間だけの滞在であったが、今でも多くのことを覚えており、その時の記憶を思い出しながら書いてみたい。

 

 私が行った2014年の黒島の人口は2人、当時の私と同じ65歳ぐらいの女性とそのお母さんが住んでいた。

黒島への渡海船は、1週間に1回、朝夕2便だけである。

前日から宿泊し、富江港から朝の船に乗った。

乗船者は、私と植物研究者の友人だけである。

私の島での目的はヤモリ調査であるが、お二人と話を聞くことも楽しみであった。

30分ほどの船旅で黒島に着くと、港には2人の女性が待っていた。

そして、私たちの下船を待って、入れ替わりに2人が船に乗ってしまった。

ちょっとだけ話をすると、福江の町での買い物と病院に薬を貰いに行くとのことだった。

私たちは、住民のいない無人島に来たことになってしまった。

夕方まで船は来ないので、丸1日、ゆっくりとした調査と島の探検を楽しんだ。

なお、我々の島内調査のほとんどは単独行動となる。

調査する目的が異なるので行動は別々なのだ。

 

黒島行の渡海船(富江港から発着)

 

黒島の集落(港から近い場所、誰かが歩いていそうな気配)

 

黒島の集落中心(遠くから見ると人が住んでいるみたい)



 港付近の家はすべて無人の空き家、お二人の住まいはちょっと奥の方であった。

まずは、来島目的のヤモリ調査。

人家周辺の石垣の瓦の下からすぐにニシヤモリを確認することができた。

神社の石の祠の隙間からもニシヤモリを確認。

これで、来島の目的は達成されたことになる。

 

ニシヤモリの確認場所(瓦の下)

 

ニシヤモリの確認場所(石の祠の隙間)

 

瓦の下で確認したニシヤモリ



 あとは、ゆっくりと島内散策。

30軒以上はある廃屋。

ちょっと離れた所から見ると、舗装された道路はきれいで、今でも誰かが住んでいそうな気がした。

しかし、近づくとやはり人の気配がない廃屋である。

荒れた庭には、その家の人を楽しませたであろう花も藪の中で咲き誇っていた。

庭の片隅にはちいさな園芸植物のサボテンもあった。

 

庭に咲いたきれいな花

 

 集落の外れにはたくさんのお墓が残っている墓地があった。

墓地は、きれいに保たれていた。

お二人が島から出ていかれた方々のお墓も守っておられるのだろう。

ネコが数匹日向ぼっこ。

お二人の飼い猫に違いないが、不審者の私には寄り付いてくれない。

あのネコたちはどうなっただろう。

 

黒島の墓地(草もほとんどなくすべての墓に花が飾られていた)

 

黒島のネコ(このネコからはほとんど無視された)

 

 島を散策している時、旧冨江小学校黒島分校があった。

もともと教員なので廃校になった学校には興味があり、中に入らせてもらった。

記録によると、1979年(昭和54年)休校、1998年(平成10年)廃校となっている。

藪の中にあるツタに覆われ荒れた木造の建物は、中に入るのを拒んでいる感じであった。

入り口と思われる場所から中に入り、廊下を歩いている時、床を踏み抜き、思わず「すみません」と叫んでしまう。

無人の小学校跡とはいえ、人の家に無断で入り込むのは何か罪の意識を感じてしまうのだ。

興味はあったが、学校以外は入り込むことはできなかった。

廊下や教室、職員室と思われる場所はちゃんと残っており、昔通った小学校と同じような造りでなつかしい気がする。

校舎内は、倒れたオルガンやもろもろの教材、棚には多くの本など、小学校ならではのものがたくさん放置。

窓ガラスのほとんどは割れておらず、まだまだ現状が継続できそうな気がした。

明治・大正・昭和の時代、人のすむ小さな島々にあった小さな小学校(分校)は、そのほとんどが役割を終えて廃校になっている。

いろんなものを見て回りながら、ずっと前、この学校に勤めたであろう先生方や遊びまわっていた子供たちの姿を思い浮かべてしまう。

教員として生きてきたからか、捨てられた学校を見るとつい感傷的になってしまうのかもしれない。

 

富江小学校黒島分校(藪の中にひっそりと)

 

黒島分校の廊下(外側の窓は所々壊れていた)

 

黒島分校の教材室?(いろいろな教材が)

 

 他にも気になる建物があった。

立派な鳥居とりっぱな参道、そして立派なソテツの木と神社。

鴨神社と書いてあった。

どんな歴史があるのだろうと思いながらも目的のヤモリ調査をしてしまう。

石の祠でニシヤモリを見つけて感謝のお参りをする。

奥の方は多少荒れた感じがしたが、鳥居付近や参道はきれいに掃除されていた。

お二人の仕事なのだろう。

 

鴨神社の鳥居と参道(きれいに掃除されていた)

 

鴨神社(立派なソテツの木が見事)



 帰りの船が来るまでの7時間ほど、お二人のいない無人島でゆっくりと調査ができた。

予定通りのニシヤモリを確認し、最後に、島の山をバックにして記念撮影。

 

黒島の海岸から記念撮影(2014年4月19日に撮影)

 

 お二人との会話は到着時と出発時のわずかな時間だけ。

でも、楽しかった。

もう1度、お二人が島にいるときに行くつもりだったが行けないまま。

心残りである。

 

 最後の住人がいなくなった黒島、現在は無人島。

多分、今後、人が住むことはないだろう思いながら、たった1日の訪問と10分程度の生前のお二人と会話が思い出されてならない。

「この島で生まれたからこの島で死にたい」という言葉の重みをしみじみと感じている。

港を出るとき、写真を撮っていいですかと聞くと、どうどうぞ何枚でもと答えてくれた。

今は亡きお二人だが、お二人には掲載の許可を得たものと信じ、最後に、手を振って別れた時の写真を載せたい。

 

黒島の二人の住人(離船するときにいつまでも手を振っていただいた)