ニシヤモリの話 その1

 2026年4月、ニシヤモリの学名が記載された。

Gekko asahi である。

ニシヤモリについては記載者とは別に調査していたのでまとめてみたい。

私のライフワークなので、とても1回のブログでは書ききれない。

数回に分けて書いてみたいと思う。

第1回目はニシヤモリの発見と和名ニシヤモリの仮称を与えた時のことを書いてみる。

 

 1979年4月、私は新設された長崎北陽台高校に赴任した。

新任の壱岐高校から転勤で、当時28歳であった。

新設校だったので生徒も1年生だけ、教員も20数名と少なかった。

私の年齢は下から2番目。

長崎市内の高校だからゆっくりと勉強しようと思っていたら、担任、文化部(生物部)と体育部(硬式テニス部)の顧問、生徒会などなどいろんな仕事が回ってきた。

しかも、生徒会担当は私一人だけ。

教員としての力も未熟で、時間ばかりかかる目の回るような忙しさであった。

おかげさまで、この一年の経験により、それ以後の教員生活で忙しすぎると感じたことは一度もない。

生物部の顧問としても多少の活動はしていたが、文化祭で発表展示する程度しかできなかった。

開校から3年目、3人目の生物教員として江島正朗先生が赴任された。

昆虫の専門家として県内だけでなく全国的に有名な先生である。

彼と私は同年代、私の高校時代(生物部に所属)から、長崎にすごい高校生がいるといううわさは聞いていたその人であった。

当然のこと、生物部顧問になっていただいた。

私も副顧問として、日々の活動には参加しないけれど、夏休み中の合宿だけ参加させてもらった。

合宿は夏休みの約1週間、主に、壱岐、対馬、五島列島、平戸島などの島嶼の調査であった。

 

江島先生(左)と一緒に写った唯一の写真(1986年5月、多良岳で撮影)

 

 いよいよ、ニシヤモリとの出会いである。

1986年8月、この年は五島列島中通島の奈良尾で合宿を行った。

公民館をお借りして自炊しながらの中通島調査である。

あまり詳しいことは覚えていないが、8月8日、昼間に訪れ面白そうな場所だということで、夜間調査に出かけた。

中通島の中央付近にある山王山のふもとにある荒川である。

海岸沿いにある小さな集落から川沿いに登って行った。

懐中電灯を頼りに沢登りをしていくと、タゴガエル(現在はゴトウタゴガエル)やカジカガエルがいっぱい。

その時である。

遠くにいた生徒から「先生、ヤモリがいる」という叫び声。

大きな岩の上に張り付いていたようだ。

「捕まえて ‼」と叫び返して捕獲してもらった。

次の日に撮影したのが下の写真である。

当時、長崎県のヤモリはニホンヤモリだけとなっていたので、このヤモリはニホンヤモリということで標本にした。

この1匹を標本として残したことが後の新発見につながっていく。

もしも、取り逃がしていたらその後のことはなかったと思うし、私の調査人生も変わっていたはずである。

捕獲してくれた生徒に大感謝である。

2年ほど前、50歳を超えた彼と何十年ぶりかで飲む機会があった。

当時のことを思い出しながら感謝を伝えたことは言うまでもないことである。

 

中通島で最初に捕獲したニシヤモリ(1986年8月8日、新上五島町荒川で撮影)

 

手の上のニシヤモリ(1986年8月8日、新上五島町荒川で撮影)



 長崎県に自然史系の博物館はない。

全国でも非常に稀な自然史系博物館のない県である。

長崎北陽台高校に勤めていた頃、長崎県に自然史系博物館をつくろうという動きがあった。

もし、そうなるとすれば多くの標本が必要になると思い、長崎県の両生類や爬虫類の標本集めに専念していた。

当時の私は両生類以外のことは分からず、爬虫類の同定はできなかった。

分からないままに集めた爬虫類のホルマリンづけ標本を大阪自然史博物館の柴田保彦先生のもとに送り同定してもらった。

柴田先生には丁寧に対応していただき、すべての標本に名前が書かれて送り返されてきた。

標本とは別にお手紙を頂き、「標本として送られてきた上五島のヤモリは、ニホンヤモリではないので、新しいタイプのヤモリとして発表しませんか」と書かれていた。

早速、送り返されてきた標本を見たが、私にはニホンヤモリとの違いは分からなかった。

先生からのお手紙には報告文の書き方なども同封されていたので、データを見ながら特徴を書き込んだ文章を書いた。

その文章を送ったところ、ほとんど原文の残っていない真っ赤に訂正された文章が帰ってきた。

何回かの手紙のやりとりの後、「日本の生物(1988)2月号」に投稿した。

タイトルは、「五島列島中通島のヤモリ属の1種」である。

著者は、松尾公則・江島正朗となっているが、文章自体はほぼほぼ柴田先生である。

この時の写真と標本(科博に寄贈)は貴重なものと思っている。

後になって考えたのだが、出来上がった文章はほぼすべて柴田先生の文章だから最初から先生が書けばよかったのに、さも私が書いたようにしていただいた。

調査に目覚めたばかりの若輩の私にチャンスを与えていただいたと感謝の気持ちでいっぱいである。

私の調査人生は柴田先生のような多くの諸先輩のおかげと感じることが多い。

お返しをしていかねばならない。

 

ニシヤモリの最初の投稿をした日本の生物の表紙

 

ニシヤモリの最初の投稿(五島列島中通島のヤモリ属の1種)



 発表はしたけれどヤモリの分類については全く分かっていなかった。

すぐに県内のヤモリ調査を開始しようと思ったがヤモリについてはほとんど知識がなかった。

まずはヤモリの勉強。

柴田先生が務められていた大阪自然史博物館に行き、ヤモリについて勉強させていただいた。

調査や採集方法も伝授してもらった。

今でも教えていただいたその方法で調査を実施している。

 

ニシヤモリ調査中(岩の隙間に潜んでいるニシヤモリをススキの茎で追い出している)

 

 この最初の報告の時にはニシヤモリという名称は使っていない。

この報告を書いた後、ヤモリ調査を開始した。

その結果を、同じ「日本の生物、1988年12月号」に投稿した。

「長崎県におけるヤモリ属の1種の新産地」というタイトルである。

五島列島各地や平戸島の新産地の報告とともに「便宜上、このヤモリ属の1種(Gekko sp.)に対し、柴田保彦氏のご教示に従ってニシヤモリという仮称を与えておく」と書いた。

ニシヤモリという名前が世に出た最初である。

 

岩の隙間に潜むニシヤモリ(分かりにくいがニシヤモリは中央にいる、周りはニシヤモリの卵塊)(2002年5月、平戸市で撮影)

 

 一緒に投稿した江島正朗先生は、1990年に急逝されてしまった。

長崎県の島嶼を中心にニシヤモリの分布を調べつくそうと、常々話していた。

現在でも細々と調査研究を継続しているのは、私にとって友人であり師匠でもある江島先生のおかげ。

変に思われるかもしれないが、ニシヤモリの調査をするときは心の中でいつも呟いている。

「江島さん、ここにもニシヤモリがいたよ」と。