平成の時代の最初ごろ、長崎県内各地の両生類や爬虫類の分布調査をしていたので、田んぼ付近を歩くことも多かった。
調査する時は、歩き回るだけでなく、できるだけ農家の人にカエルのことを聞くようにしていた。
ある時の平戸島調査の際、いつものように農作業をしている老夫婦と話をすると、「かえる」という言葉とともに「じょうこさん」という名前も併用して使われていた。
聞いてみると、平戸島ではカエルのことを「じょうこ」と言うらしい。
「どんく」や「びっき」は知っていたが、「じょうこ」というカエルの名前を初めて聞いてびっくりした。
自分たちがいつも使っていた方言の「どんく」や「びっき」以外にも方言があったのだ。
ちなみに、「じょうこさん」の「さん」は、小さなかわいらしいカエルに使う愛称らしいことも説明していただいた。
松浦市にある「道の駅松浦海のふるさと館」に飾られていた大きなカエル(じょうこ)

この時から、長崎県のカエルやヘビの方言調査が始まった。
カエルやヘビの写真を片手に、農作業をしている人に方言を聞いて回るのである。
ターゲットは、農作業をしている老人。
若者は標準語の図鑑に出ている名前しか知らないので無視することにした。
あぜ道の所に座り込み、昔の話をしながらの方言調査は楽しかった。
お年寄りの方は、写真を見ながら昔のことを思い出し、楽しそうに話してくれた。
1時間以上話し込んだこともあり、生きものに関する多くのことを教えていただいた。
このような現地での聞き込み以外にも、その地域の生きものに詳しい人を訪ねての情報収集や方言辞典で調査も試みたが、やはり、農家の人との会話が楽しかった。
多分、実家が農家だったので血が騒いだのであろう。
調査地域は、島も含めて、全部で40カ所ぐらい。
完璧を期すなら調査地点をもっと増やすべきだろうが、あくまでもこの調査は副業なのでこの程度とした。
長崎県は、小さな面積の県なのに、江戸時代には多くの小藩があった。
天領であった長崎市、大村湾を囲むように大村藩、平戸松浦壱岐地域は平戸藩、五島や対馬にも藩があった。
その藩ごとに異なるカエルの名称が使われているのである。
ただ、全部のカエルやヘビの方言が異なっているのではなく、共通の方言も多かった。
不完全な調査ではあったが、何とかまとめたのが下図である。
疑問のある方も多いと思うが、おおざっぱな分布図ということでお許しいただきたい。
なお、この図は、2005年発行の「長崎県の両生・爬虫類」(松尾著)に書いたものである。

長崎県にはカエルをさす方言が大きく4つある。
県本土で広く使われていたのが「どんく」、県北平戸付近では「じょうこ」、県央から壱岐対馬では「びっき」、五島列島では「ばっぷ」である。
その中で、「どんく」や「びっき」は、その地域の方言と併用されることもあり、広範囲で聞くことができた。
私の小さいころの記憶では、大きいカエルは「どんく」、小さいカエルには「びっき」を使っていたような気がする。
明治以降、人の移動が激しくなり、方言もばらばらになってきた感があるが、今ではその方言を使う人はほとんどいなくなってしまった。
ちなみに、カエルというのは東京弁で、いわゆる標準語として全国に広まったのである。
図鑑や教科書では、カエルという言葉しか使わないので、若者を中心に方言が消えていくのは仕方のない事であろう。
カエルの方言採集をしていると、特定の名前ではなく、「小さなびっき」「緑色のじょうこ」「茶色いどんく」などの形容詞が前についた名称が多かった。
カエルなんぞに一つ一つ名前をつけなくてもよかったからかもしれない。
小さなびっき(ヌマガエル)

緑色のじょうこ(ニホンアマガエル)

茶色のどんく(ツチガエル)

その中で、ヒキガエルだけは特別であり、どの地域のどの人に聞いてもちゃんとした名前が使われていた。
ニホンヒキガエル

旧大村藩領の「しょうかどんく」(家にすむカエルという意味か?)、旧平戸藩領の「おんたらじょうこ」「おんじょうこ」(鬼のようなカエルという意味か?)五島の「ばっぷどんく」、島原半島の「わくどんく」などである。「どんく」という名称が、カエルの総称でもあり、ヒキガエルのことをさす地域もあった。
これまた、不完全な調査ではあったが、何とかまとめたのが下図である。
疑問のある方もあると思うが、おおざっぱな分布図ということでお許しいただきたい。
なお、この図は、2005年発行の「長崎県の両生・爬虫類」(松尾著)に書いたものである。

多くのカエルの中で、ヒキガエルだけが特別なのは、日本最大のカエルというサイズだけではなく、威厳に満ちた顔つきに敬意を払ってのことだろうと思う。
というのは、多くの地域で次のような話を聞いたからだ。
昔の台所は流しの下がそのまま排水路になっておりいつもじめじめしていた。
そこには、家の主と呼ばれる大きなヒキガエルが居座っていた。
それで、流しに熱いお湯を流すときには『熱いお湯を流すからそこにいるものは離れなさいよ』と呪文のように言っていたそうだ。
実際に、私の母親がその言葉を言っているのを聞いたことがあり、無意識に言ってしまうとのことだった。
昔からの言い伝えだったようである。
この話は多くの場所で聞くことができた。
五島では、黙ってお湯を流しヒキガエルにやけどをおわせた女性にたたりがあったという話まで残っていた。
飼育中のニホンヒキガエル(名前は2代目ヒキ太郎)

日本各地を見てみると、標準語を使いながらではあるが、地域の方言は残っているし、独特のイントネーションもある。
しかし、動物名などの方言はほとんど消えてしまっている。
動物の名前は、日本中で統一しないと話が通じないというのであろう。
地域によって動物名が変わっていたら困ることは十分に分かるが、何か寂しい気もする。
調査を終了してから約30年、聞いた人のほとんどが他界された。
自分が、その年齢になってみて、カエルの方言採集としてはラストチャンスという時期に調査ができたなと思っている。
今では、その言葉のほとんどが死語である。
方言調査をしているとき、おばあさんの方が別の地域のカエルの方言を言われることがあった。
その時、「おばあちゃんは、遠くのあの地域からお嫁に来られたのですね。」という会話で盛り上がったものだ。
その時の光景がいつまでも忘れられない。